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2010年7月22日 (木)

映画評『借りぐらしのアリエッティ』

(ネタバレ等とくに気にしないで書き流していますので、これから見たいという方は遠慮いただいたほうがいいかと思います)

物語はシンプル。
郊外の広い民家の地下で、小人の一家が暮らしている。都会から療養のためにこの家にやってきた少年に、小人の娘アリエッティが姿を見られたことで、小人一家は出ていかなければいけなくなる、その過程で人間と小人のかかわりが描かれる・・・というお話で、原作はイギリスの有名な児童文学なんですね。知りませんでした。

ざっくりの感想としては、

軽い作品で楽しく観れました。後で説明しますが本作の主眼は二つの世界の交流ではなく、ワンダーランドの空気、世界観に浸るところにあるので、小難しいことを考えなくてすむので非常にありがたい。重いテーマは疲れてしまうからね。

床下の煉瓦が雑然と積まれたような中に小人の家があり、人間に「借りてきた」様々な道具を小人が創意工夫で生活にいかしている、こういうディテールは宮崎・ジブリのお得意なのでいつもながら素敵ですねということなんだけど、本作品の一番の工夫どころは、人間と小人の共存=日本の田舎暮らしとヨーロッパの(といっても、日本人が頭でイメージするヨーロッパの、ということだろうけど)暮らしが自然なかたちで同時に存在している、という設定を創り出した点にある。
「小人=ヨーロッパ」側からすると巨大な人間の世界はおのずから(これも宮崎ジブリお得意の)驚きと冒険に満ちた世界であり、「人間=日本」側からすれば小人たちの世界は温かく繊細な美しさに満ちた世界である。この二つの世界が、お互いを異世界として覗き込む構造がこの映画の骨格をなしている。絵にするとこういう感じ。

Arietty1_2

言い直しになるけれど、①の方向は民話(メルヘン)であり、②の方向は冒険譚である。この二つの流れが絡み合い流れていく展開はいかにもよくできている。原作の力なのかジブリの力なのかは知らないけど。
観客としては、この二つがだんだんと一つの本流に流れ込んでいき、最終的に<つながった世界>が立ち現れることを予想することになる。具体的には少年と少女の淡いメルヘンを、まあそうなるんだろうなあという形で待望する。つまり、さっきの絵がこうなる。

Arietty2_2

だが、実はこの映画ではこの展開ははっきりとした形では示されない。いや、あるにはあるんだけど。その意味でのクライマックスは、庭に寝転んだ少年と引っ越しが決まり別れを告げに来たアリエッティの対話シーンだけれど、このシーンが結構薄い。
図式としては、会話の中で滅び行く種族である小人と心臓病を患った少年という共通性が確認され、アリエッティの強い意志に触発されて少年が生きる勇気を持ち始めるということになっている。一応図はつけます。

Arietty3_2

なんですが、このシーンが十分な重みをもって描かれていると私には感じられなった。極端な言い方をすると、別になくてもいいんじゃないかと思う。なくても全体のストーリーは十分に成立する。
想像ですが、原作ではこのところが核を成しているんだけど、映画製作陣としては世界観を楽しんでもらう上では余り強調しないでいいんじゃないという判断をしたのではないか。小人をつかまえようとする家政婦との攻防に比べればごくごく薄く描かれていることからもそんな気がする。ただ丸々テーマをなくすというのもアレなので・・・ということでこんな感じの出来になったように思う。
ともあれ、異世界の衝突と融和という重くなりがちな主題を避けて、物語はさらりと二つの世界がすれ違う形で終わっていく。二つの世界の交流がメインでないと言ったのはそういうことです。これって人によっては中途半端で(主題がなんだかはっきりしなくて)イライラするかもしれないね。

以上まとめて私の感想。二つの世界から見た双方向の物語を描きつつ、政治的になりがちな<文明の衝突>を正面に据えず、賛否あるとは思うけど、魅力的な造形と道具立てで見せる、肩が凝らず爽やかな佳作でした。

ブログとしてはそれだけで終わってもつまらないので、もう少し贅言を。
この映画から汲み取れる示唆は「日本から見たヨーロッパ的な魅力」という形で典型的に示される、異世界への憧れの美しさと虚しさ、ということになるだろう。
はじめに図示したとおり、この映画の中では人間からの小人へのまなざしがそれにあたる。そしてそれは観客(もちろん人間)のまなざしでもある。それは悪意のない好奇心であり、少年の場合であればアリエッティに贈り物をしようとする行為になり、家政婦の場合であれば小人をなんとか探し出して捕まえたいという野蛮な現れかたではあるけど、根本は同じだよね。そして、その欲望のベースの形態が、少年の祖父が小人のために用意したドールハウスということになる。
でも、どんな形であれ小人は人間の行為を拒否し、結局は家を出ていくことになる。それは、一般的な世間知として、無邪気で一方的な好意に甘えることほど危険なことはないからであるとともに、そもそもドールハウスは人の住むところではないからである。小人は人形ではないし、小人の暮らしはおままごとではないということです。当たり前のことだけれど。けれど、異世界に触れるとき、しばしばこの錯誤は起こるものです。おままごとだと勘違いしているからこそ美しく憧れの対象になるし、その裏返しとして実相はそんなものじゃないということが分かっていないと、不幸な亀裂を生むことにもなる。
小人の側から見れば、一定の依存関係にありつつも甘えを廃し警戒を忘れない意味で「借りぐらし」という言葉が重みを持っていて、ここまで確認しないとタイトルがあまりピンとこないんだけど、そのあたりは作品としてはスルー気味というのは前述したとおり。

取り留めなくなっちゃったな。まあ、そんな感じです。

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